『にきびとり美顔水』誕生ストーリー
■『にきびとり美顔水』誕生のきっかけは、妻への愛
当社の創業者である桃谷政次郎(1863-1930)は、約400年前の慶長の時代から紀伊國粉河(現・和歌山県紀の川市粉河)で代々薬種商「正木屋」を営んでいた家系に生まれ、和歌山県立薬舗学校に学んだ後、紀州初の薬剤師となり創薬に励みました。
明治になり、西洋医学・薬学が重視されるようになったため政次郎は西洋医学者として高名であった東京帝国大学教授 桜井郁二郎を訪ねて最新の製薬技術を学び、その指導の下、にきびに悩む妻のために、日本で初めて西洋医学を取り入れた処方で『にきびとり美顔水』を開発しました。 政次郎の帰郷後、『にきびとり美顔水』を使用した妻の肌がみるみるうちに美しくなり、その効能は地元で評判となりました。
そして「人々のお役に立ちたい」という強い想いから1885(明治18)年に販売を開始すると、全国にその名を馳せるほどの大ヒット商品となり、やがて海を越え、海外での販路も拡大させていきました。
■“歴史”の業 既得権で135年変わらぬ処方
『にきびとり美顔水』はサリチル酸処方で創られ、にきびとりを効能として宣伝したことから、当初は医薬品として売り出された薬用化粧品です。化粧品は、その後医薬品とともに安全性の面から医薬品医療機器法(旧薬事法)で厳しく規制されるとともに、医薬品と並行して発展してきた歴史を持ちます。
現在、『にきびとり美顔水』の成分であるホモスルファミンは医薬品の成分とされており、化粧品に使用することはできません。そんな中、1885年に誕生した『にきびとり美顔水』が、135年を経ても処方を変えずに販売できるのは、既得権を持つ“歴史”のなせる業なのです。
このように、『にきびとり美顔水』は、化粧品工業の方向を決めた最初の画期的な製品であり、「日本の化学および化学技術にとって歴史的に貴重な史料」であるとして日本化学会化学遺産に認定されました。
当時の様子を描いた浮世絵<日本化学会化学遺産とは>
公益社団法人日本化学会※1が“日本の化学分野の歴史資料の中でも特に貴重な資料”を遺産として認定したものです。これらの資料を次世代に受け継いでいくとともに、化学分野の技術と教育の向上、発展に寄与することを目的とし、2010年3月に第1回化学遺産が認定され、今年で11回目となります。
化学プラント遺産や象徴的な建造物・構造物、保存・収集された装置・製品、歴史的意義のある化学関連文書類等を対象に、毎年3件前後の資料が日本化学会化学遺産として認定されています。
※1 1878(明治11)年に創立され、会員数約3万人を誇る日本最大の化学の学会。化学・科学技術の知識を 進展させ、人類の発展と地球生態系の維持とが共存できる社会の構築を目指しています。
左:1885年販売当時の『にきびとり美顔水』 右:現在発売中の『にきびとり美顔水』<桃谷順天館の歴史>
1885年 | 粉河(和歌山県)にて桃谷順天館を創業 「にきびとり美顔水」を発売 |
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1913年 | 業界に先駆けて化粧品試験部を開設 英国「リーバ・ブラザーズ社(現ユニリーバ社の前身)と提携し「美顔石鹸」を発売 |
1914年 | 皇族より製品各種御用命を賜る |
1918年 | 日本を代表する川柳作家の岸本水府が広告部に入社 |
1920年 | 鉛毒問題を解決するため、無鉛白粉製造方法を研究し、原料工場を新設 (製造方法は特許を取得) |
1922年 | 天皇陛下より美顔化粧品各種御買上の栄誉を賜る |
1927年 | 化粧品振興への多大な功績と「関西日仏学館」創立に寄与したことを評価され フランス最高勲章「レジオン・ドヌール勲章」を受章 |
1928年 | 化粧品業界への貢献・社会貢献が評価され「緑綬褒章」「紺綬褒章」を受章 |
1932年 | 油性分が入ったクレンジングクリーム「明色クリンシンクリーム」を発売 |
1932年 | 大平正芳氏(のちの総理大臣)が入社 |
1936年 | 弱酸性化粧水の先駆けでバッファ効果のある「明色アストリンゼン」を発売(製法特許取得) |
1938年 | 「美人は夜つくられる」コピーの誕生 |
1962年 | オーデコロンの世界的名門4711社(ドイツ)の日本総代理店となり生産も含めた技術提携を行う |
2012年 | 「大阪市きらめき企業賞」を受賞 |
2018年 | 明治150年記念「日本を変えた千の技術博」に展示採用 (にきびとり美顔水・解熱丸・明色クリンシンクリーム・明色アストリンゼン) |